大学院入試で落ちた
タイトルの通り、大学院入試に失敗した。
これを書いているのが不合格と分かってから1週間くらい。
この記事は不合格が決まってから自分が感じた事、思った事を書いていく。
院落ちにこれからどんな道があるのか、何をすべきなのかは進行中なのでメインの話ではない。
軽々しく言うわけではないが、こういう経験もめったにできないので自戒、忘備録として、長くなっても出来るだけ詳細に書いていく。
◆試験受けるまで
理系の大学院入試で①内部進学は難しくない②過去問も十分解ける③学校の成績も上の下くらい、ということですっかり油断していたのだと思う。
そうは言っても自分の中で「これはやらなくてもいいやろw」という気持ちはなく、準備万端で行ったつもりだったし試験当日は緊張した。緊張で体の動きが鈍く感じるくらいだった。
試験自体は過去問と傾向が変わっていて難しかった手ごたえ。不安はあったが「俺が出来なかったのなら他の人もできないだろう」と思って(自己暗示)面接まで気を保っていた。
◆不合格通知直後
実質面接で合否を言われる。
学科の教授たちが10数人。名前を名乗りテストの手ごたえはどうでした?と聞かれ、難しかったですね出来るところはやりました、と答え。
『他の大学の院は受けてますか?』の質問がきた。
前情報から落ちていたらこの質問が来ると聞いていた。一拍、心臓が動かなかった気がする。
「いいえ、受けていません」と、きちんと受け答えできたのはここまでだった。
『1科目、致命的にできていないのがあって…』
「…落ちましたか?」面接で聞くべきではないのは承知していたがもう確定なので聞いた。
『決定的な事は言えないけど、よほどのことがないと合格は難しいかなと…』
「……はい…」面接の場では相応しくない小さな返事を絞り出した。
絶望に1番近いところにいた気がする。
その時、少しでも元気があれば「よほどの事って逆に何ですかw」と振舞えただろう。
それもできなかった。
皆と同じように順当に卒業して、大学院に行って、就職するものだと思っていた。
これから何をすればいいのか一切わからない。灰色の不安の穴に落ちていったような。
◆帰宅まで
面接の最後は『それじゃあ、控室には戻らず、気をしっかり持って頑張ってください』だった。気を遣ってくれたがそれに応える気力は抜けていた。すまないことをした。
「………はい。」内心は(いや、はいじゃないが。ここではいと言わなかったら覆るのか?)ともかすかに思ったがみっともない足掻きはしたくないし面接なのだから、これはきちんとしないと、と思った。思えばこれは本当に染み込んだ習慣なんだろう。
「失礼しました」
面接室を後にする。これから面接をする同級生に感づかれないよう背筋を伸ばしてすまし顔で歩いた。
階段で1つ下の階に降りて、どうしても1人になりたくてトイレの個室に入り、泣いてしまった。ボロボロ泣くのではなく、涙が滲み出てきた。
込み上げた感情が心の器から溢れて涙になっているような。自分の心では処理しきれない分が外に出されているような。
親に申し訳ない、これからの不安、悲しい、悔しい、いきなり傾向が変わった怒り、虚無感、恥ずかしい、など。
涙にも感情の純度があるのだと思う。1つの事に対する烈火のような怒りではなく、取り返しがつかない悲しみでもなく、何か名前のない色々な感情だった。
親に連絡を入れた。電話は繋がらなかったので「ダメだった、ごめん」とだけメールをした。としかできなかった。
その足で研究室に報告は行けず、友達にも伝えられず、ただ家に帰った。
恥ずかしいという気持ちもあったが本当にこれからが不安で、心臓の鼓動が少し早くて、思考にグレーのフィルターがかかったような感覚。頭は回らない。
電車では少し寝た。心がグチャグチャになったときの自分の冷静になる方法。
電車を降りてから最寄り駅までは無事に帰れた。
駅から歩いて帰宅。足が泥で出来ていてそれを引きずるような重さ。夏の日差しにスーツを上まで来ているのにあまり暑く感じなかった。
歩いているとまた涙が出てきた。泣いても仕方ないのは分かっているが自然と出てくる。過去には1度泣いたら切り替えられたのに今回は何度も何度も、泣いては泣き止み、また勝手に涙が出てきて。
幸い周りに人がいなかったので変な人には見られなかった。車から見たら「夏にスーツで真下に俯いていて歩がめちゃ重いやつ」だっただろうがそんなことを気にすることもできなかった。
家に近づくにつれて足はさらに重くなった。
「家に帰れない」こんな気持ちになったのは初めてだった。
僕は正直なところ親の事は嫌いではないが好きでもない。もちろん恩を感じて感謝もしているが心の底からというより頭で育ててくれた分は感謝すべきだろう、みたいな程度。価値観が合わないので早く自立して距離を取りたいと思っていた。
それでも、今まで育ててくれた親に対して申し訳なくて見せる顔がなかった。
何を言われるかとかどう思われるかとか無しに、ただただ合わせる顔がない。心からそう思った。その感情が溢れてくる。携帯の電源も切っていたが、起動して親からの返信を見る気にはなれなかった。
家が見えてきて泣いた。そのまま帰れなくて隣の誰もいない公園のベンチに座った。何度か泣いて泣き止んでを繰り返した。帰ろうとベンチから立っても体が家に向かわない。また座って泣いた。ここにいても仕方ないのは分かっている。泣こうと思って泣いているんじゃない。
感情が落ち着いた隙に公園を出た。
決心がついたわけではない。きっと公園にいるのが疲れたからとか、ぼんやりと公園を出た。
玄関が見えて泣いて、扉の前で泣いて、泣きながら扉を開けた。
泣きながらの第一声は「ごめん」だった。
『泣いてても仕方ないわな』と母親も努めて事務的に対応した。
机に向かい合ってこれからの話をしようとしても親を前にすると申し訳ない気持ちがなおさら溢れてくる。何を話したか忘れたが、1度も目を見て話ができなかったのは覚えている。見かねた母親が『今は話をしても仕方ないから落ち着いたら話すことしする』と、決して優しく語りかけたわけではないが、気を遣ってくれた。
自室に戻り、「目が覚めたら実は夢とか無いかな」と本気80%で思い、眠った。
波打って絡まって分散しそうな心と、無気力と熱暴走で処理能力が落ちた頭をリセットした。これからの事を考えるために心を落ち着かせ、頭を冷静にする。
◆夜、冷静になってから
横になったらすぐに眠った。よほどストレスを感じて心が疲労したんだろう。
2時間寝て18時。夢も見ずに目を覚ました。
事態を思い出し、相変わらず不安になったが寝る前のただ漠然とした不安ではなく論理的な不安だった。心は落ち着きを取り戻し、頭はこれからの事を考えねばと動き出した。
この段階でかなり回復?はした。親と話をした。と言っても何をやればいいのかわからないので具体的な話ではなかったが、何かを始める区切りにはなった。
◆自分と周りの人
翌日、気持ちは切り替わったので言いにくかったが研究室の人達や少ない友達に落ちたことを連絡した。
声をかけてくれる人もいたし就活情報を教えてくれる人もいたし建設的に相談に乗ってくれる人もいた。もし自分が、友人が大学院に落ちたと知ってもこんなに親切に出来るだろうかと思ったし、そうしてくれる人が周りにいたことに感動した。
週末には僕と父親と母親の希望を話し合い、情報を話し合った。
毎日夕食のタイミングにその話をした。気持ちは重かったがやらなければいけない事。
母親は少し感情的になる場面もあった。普段は聞き流すところだが、今回ばかりは全部を受け止めなければと思った。
話し合いの内容はおよそ「留年するというのであればお金は気にするな。色々意見は言うが君が決めたというのならその道を進ませてやる」という結論になった。
今後どうなるかはわからないがそう言ってくれるのは本当にありがたかった。
◆自分と初めて向き合う機会になる
このような事態になり、どうあれ1度追い込まれることになった。
これまでにない感情を経験した。めったに出来ない体験をした。
縁起でもない話だが、落ちた直後にどこかで自殺すれば楽になるのではと考えが浮かばなかったわけでもない。しかしそれは誰が悲しむからとか迷惑かけるからとか考える間もなく一瞬で却下された。
「生きてりゃ先にきっと何かがある」というのが心の根底にあるからだと気付く。まぁそれが甘さの根源と言えばそれもその通りなのだが。
それと、恥ずかしながら、自分の人生と初めて向き合ったと思う。
今までは全部流れがあった。中学から行ける高校に行き、理系に行けばなんとかなるやろと理系を選び、浪人しても予備校行くのはまぁ決まってて、大学で具体的な考えは無しに「何かスキル身に着けようかな」程度で色々手を出し。
この先も何となく大学院に行って2年学生してから周りの皆がやりだす頃に就活して~と思っていた。
この道中で何も考えなかったわけではないし考えてた当時は真剣に考えているつもりだったんだと思う。
自分は将来何がしたいのか?真面目に考えたことはなかった。ただ何となく安定した暮らしがしたい程度の願望だった。
今自分に出来る事は?人と比べてもやったことはあると思う。それで安心していた。それを社会でどう活かすかは考えてないし、他の人と差があるほど?社会で通用するの?と聞かれると弱いかもしれない。
自分がどんな人間なのか。今一度考える機会になっている。
仕事にしたいと思う何かを見つければ、そのために院に行くのか、就活するのかも見つけられるかもしれない。
5年後、10年後、20年後に「あの時、院に落ちたから今があるんだな」と笑えるように希望を持って頑張っていきたいと思う。この経験が将来笑い話にできるように。